ソラシドの参加者には、自然栽培の技術を学びたい人と、添加物の使用など「食と健康」への不信感から自然栽培にたどり着いた人とがいた。私は前者だったが、それはむしろ少数派だった。大多数の参加者が、程度の差こそあれ、後者の理由で参加しているようだった。
私は食べることが大好きだが、添加物の使用には無頓着だった。マクドナルドだって菓子パンだって、自分がおいしいと思うものは添加物が入っていようとなかろうと関係なかった。今だって基本的にはそんな考えのままだ。それで早死にしたとしてもなんてことない。おいしいものを食べられて幸せな人生だったと思うだけだ。
しかし、ソラシドスクールに参加することで、世の中はそんな私みたいなおめでたい人ばかりでないということを知った。添加物だけではない。遺伝子組み換えやゲノム編集に対する不信感やワクチンに対する不信感。電磁波に対する不安。陰謀論。科学技術が進めば進むほど不安を抱えこんでいく人たちが一定数いることを知った。私はソラシドの中ではマイノリティであり、正直に言えば、多少の居心地悪さを感じた。私は自然科学の実践の場として自然栽培をとらえていたが、そこには科学に対して不信感を感じている人が大勢いたのだ。自然が好きだという共通項があるにもかかわらず、ベクトルはまるで反対方向を向いているようだった。私は困惑した。
私は、私の感じている違和感について考えざるを得なかった。なぜこのような科学不信が渦巻く世の中になってしまったのだろうか。このような世の中になってしまったことに対して研究者に責任は無いのだろうかと自問し続けた。私がたどり着いた結論はこうだ。結局、人は話し合うことでしか理解し合えないのだ。研究者は研究室で重箱の隅をつつくような研究ばかりしていないで、社会に出るべきなのだ。社会に出て人々と対話することで、人々の抱えている不安を理解するべきなのだと。新しい科学はそこから生まれるべきだ。それを置き去りにして、製薬会社や資本家の意向に沿って国が動く(ようにみえる)から、科学技術に対する不安や不信が益々大きくなるのだ。私は専門的な医学情報を理解することはできるが医者ではない。私が医学的な情報を発信するのは適切ではないだろう。では、私が研究者の立場でできることは何なのか、自問自答する日々だった。