シアトル市の図書館で夏目漱石全集を借りました。
僕が小六の時に「我輩は猫である」にチャレンジし挫折して以来、漱石は難解でとても手に負えないものというイメージが拭えず、今までずっと避け続けていました。24年ぶりに「我輩は猫である」を読み直してみると、小六の時感じた難解さをむしろ楽しめるようになったことに気づき、感慨深いものがあります。
で、「我輩は猫である」のなかで、漱石が遺伝・進化について語っている下りがあるのですが、これが、今の僕の仕事である「遺伝子型と表現型の関係における環境的要因」をうまく説明しているのでビックリしてしまいました。
苦沙弥(くしゃみ)先生(猫の飼い主)は英語の教師で、その教え子だった寒月君は、苦沙弥(くしゃみ)先生の近所の実業家、金田家の令嬢と恋仲にあり、結婚を考えていますが、苦沙弥(くしゃみ)先生とその友人である美学者、迷亭(めいてい)は、その結婚話に大反対です。金田令嬢のご母堂である金田夫人は鼻持ちならぬ性格で、苦沙弥(くしゃみ)先生はこの夫人を嫌悪していますが、この金田夫人がとんでもなく巨大な鼻の持ち主なのであります。そこで出てくるのが次の迷亭(めいてい)の話です。
――いいか両君能(よ)く聞き給え、これからが結論だぜ。――さて以上の公式にウィルヒョウ、ワイスマン諸家の説を参酌して考えて見ますと、先天的形体の遺伝は無論の事許さねばなりません。またこの形体に追陪(ついばい)して起る心意的状況は、たとい後天性は遺伝するものにあらずとの有力なる説あるにも関せず、ある程度までは必然の結果と認めねばなりません。従ってかくのごとく身分に不似合なる鼻の持主の生んだ子には、その鼻にも何か異状がある事と察せられます。寒月君などは、まだ年が御若いから金田令嬢の鼻の構造において特別の異状を認められんかも知れませんが、かかる遺伝は潜伏期の長いものでありますから、いつ何時(なんどき)気候の劇変と共に、急に発達して御母堂のそれのごとく、咄嗟(とっさ)の間(かん)に膨脹(ぼうちょう)するかも知れません、、、(「我輩は猫である」夏目漱石)
今やっていることそのものズバリといった感じです。さすが漱石先生。