生まれてきた赤ちゃんに名前を付けるとき、親は最高に素敵な名前を付けてあげようと苦心しますよね。音の響きや漢字の意味、姓名判断の結果などありとあらゆることに気を配って、あーでもない、こーでもないと言いながら名前を決めますよね。生まれてきた赤ちゃんに対して親が最初に示す愛情の表れともいえますね。
新しい遺伝子を見つけたときの研究者の気分はこれと全く同じようなものです。その遺伝子がエキサイティングなものであるばあるほど、名前を付けるのにも気合いが入るものです。最高の名前を付けようとあれこれ考えてみるものの、なかなか名前が決まらなくて見つけてからだいぶ月日が経つというのにクローン番号で呼ばれ続けていたりすることもあります。”14-3-3”という遺伝子があるのですが、これなんかまさにクローン番号がそのまま遺伝子名になってしまったような名前ですね。
私が見つけた遺伝子で、名前をつけた遺伝子は二つあります。ひとつはウニのEBPαとEBPβです。EBPというのはEGIP-D-binding proteinの略で、この名前自体は遺伝子を取ってくる前からありました。僕が付けたのは、αとβのところで、当時 (1994年)は増殖因子の名前などでギリシャ文字を使うのが流行っていて、それに乗じたのです。でも、ギリシャ文字を使うとデータベースで表示できなかったり、パソコンで入力した後フォントを変換するとαがaになってしまったりと結構不便なことが多いです。そのせいか、最近ではギリシャ文字を避ける傾向にあるようです。
もう一つの遺伝子は、理研BSIでの研究生活を共にしたCanopy1遺伝子です。もともとこの遺伝子はD121と呼んでいて、一緒に仕事をしていたHさんが「なんだか素敵」という付箋を貼付けたほど”素敵な”遺伝子発現パターンを示したサンプルから研究が始まった遺伝子です。D121はこれまでに報告のない新しいタンパク質をコードしていたので、名前を付けてあげなきゃいけなかったのですが、なかなかいい名前が浮かばず、数年のあいだD121と呼ばれていました。Canopyという名前は当時のボスであるO先生のアイデアで決まったのですが、ゼブラフィッシュという魚の胚でD121遺伝子の働きを阻害すると、脳の形が異常になって、ジェット戦闘機の風防(キャノピー;Canopy)のような形になることが名前の由来です。愛嬌があって覚えやすい名前でしょ?僕はこの名前が気に入ってます。こんなふうに遺伝子に愛嬌のある名前を付けるのは発生生物学の文化の特徴です。Sonic Hedgehogなんてゲームのキャラクターから名付けられた遺伝子もあります。それと対照的に、”T”一文字だけの遺伝子なんていうのもあります。(しっぽの短いマウスから見つかった遺伝子なので、TailからTという名前になったようです。)
しかし、全ての遺伝子にこのような愛嬌のある名前が付けられているわけではありません。むしろ、愛嬌で名前を決めるのは遊び心溢れる発生生物学者だけで、一般的には遺伝子がコードするタンパク質の機能や突然変異体の表現型を表す味気ない名前が付けられていることが多いです。しかも、遺伝子名は学会で定められた命名法に従って、アルファベット3文字プラス数字であらわされることが多く、今私が研究している酵母ではこの命名法が完全に浸透していて、遺伝子名はみなシステマティックなアルファベット3文字プラス数字に統一されています。こんな具合です。 FUS3, GPD1, SIC1, FAR1, CDC28, HOG1, FLO11, DAK1, KSS1, CLN2, GRE2, STE2, STE3, STE11, STE5, STE12, STE50, STE20, SHO1, CDC42, SLN1, PBS2・・・。こんな味気ない名前を覚えるのだけで一苦労です。発生生物学の遊び心が懐かしくなります。
いくつものモデル生物でゲノムが解読され、全ての遺伝子が明らかになりつつある今、遺伝子に素敵な名前を付けようと苦心するのも過去のものとなってしまうのかもしれませんね。