2021年のとある日、ソラシドスクールの主宰者である島田さんから、醤油の麹を手づくりしている人が安曇野にいるから教わりにいかないかとお誘いがあった。醤油といえば、大豆と小麦を原料として微生物による発酵作用によって作られる日本の代表的な調味料だ。醸造中に腐敗しないよう大量の塩を加えるのがミソだ。高塩濃度下における微生物のふるまいは私の米国留学中の研究テーマであったので、私はその誘いに大いに興味を持ち、ソラシドの有志とともに安曇野に向かった。教えてくださるのは、ひなた醤油研究所の宮崎康英さん。昭和初期の醤油の専門書と酒蔵で働いた経験を基にして、独自で醤油の自作方法を編み出したパイオニアだ。
麹づくりは4日を要する大仕事だ。そのうち特に最初の2日間は、麹に付きっきりで温度管理を行わなければならない。夜中も2時間おきに温度を確認するため、仮眠しか取れないというハードさだ。宮崎さんによる講習は、大豆の選別と小麦炒りの作業から始まった。どちらも宮崎さん本人が自然栽培で収穫したものだ。小麦を炒った後は手回しの製粉機で粗挽きにするのだが、宮崎さんは右手で製粉機を回しながら左手で大豆の選別を行い、虫食いや変色しているような大豆は容赦なくはじいた。選りすぐりの大豆だけが醤油づくりに使われるのだ。宮崎さんの醤油にかける情熱を目の当たりにして身が引き締まる思いだった。大豆をたっぷりの水で煮た後、炒った小麦と混ぜ合わせる。適温にまで下がったところで種麹、すなわち麹菌の胞子をふりかける。宮崎さんは、花咲かじいさんのように、“枯れ木に花を咲かせましょう♪きれいな花を咲かせましょう♪”と唱えながら種麹を振りかけた。麹室に引き込まれた麹は温かい布団の中で眠っているようだった。そうして8時間が過ぎた頃、わずかな変化が始まった。胞子が発芽して菌糸を伸ばし始め、自らが作り出した熱(発酵熱)によって温度上昇を始めたのだ。そこに生き物がいることを実感させられた瞬間だ。私は麹菌を観察するために実体顕微鏡を持ち込んでいた。麹蓋から大豆を一粒取り出し、顕微鏡のステージに置くと、大豆の表面に菌糸がうっすら伸びているのが見えた。私たちはみな大いに興奮した。3日目になると麹の表面はうぐいす色に変化した。麹菌が胞子の花を咲かせたのだ。顕微鏡の下にはまるでナウシカのような世界が広がっていた。
